天保期は、例外や飢饉が大恐慌を招いたことで、幕府財政が悪くなった時代として知られています。その中誕生したのがこの天保五両板金(てんぽうごりょうばんきん)です。経済情勢を立て直すべく水野忠邦が大胆な貨幣改革をし、家康時代のように金の品位を高くしました。慶長大判金をも凌ぐ品位で、金品位が84.29%と非常に高く、愛好家の間でも大人気の金貨です。
また、江戸期で唯一、五両の額面をもった金貨がこの天保五両判金です。表面中央に「五両」の極印が使われ、広く使用されると思っていましたが、庶民には高額すぎて持てず、多くは武士がもっていたとのことです。落語にも登場するようにこの金貨は武士が蕎麦屋や団子屋でこの高額金貨を出し、お釣りの出せないことから「踏み倒す」ために使われたとも揶揄されていることから、不人気となり、結果として6年で廃止となっております。結果、発行愛数が6年で34,455枚と非常に少なく、プレミアがついており今では大人気となっています。
天保期に作られたことを示す「保」の時代印が刻印され、裏の中央には後藤家花押があることが分かります。家康は江戸幕府を開いた後、全国の貨幣を統一するため改革を行いますが、金貨の鋳造は全て江戸末期まで「後藤家」が担当することになり、その花押が裏に刻印され、表面には後藤庄三郎光次が承認した証として「光次」の署名が刻印されています。これは小判だけでなく小さい金貨にも刻印されており、これらの金貨は江戸時代の最後まで作られることになりますが、後藤家は世襲制のため、代々同じ名を子孫が引き継ぎました。このため江戸時代中期や末期の小判や金貨にも「光次」の文字が刻まれています。