ジョアン5世は、ブラジルから産出される金と1727年から新たに発見されたダイヤモンドなどの富を背景に絶対王政を敷いて、顧問会議を開かない代わりに側近政治を行い、外交では1717年に教皇クレメンス11世の呼びかけに応じて対オスマン帝国戦争に参戦、見返りにリスボンに総大司教座を創設して宗教権威を身につけ、1748年に教皇ベネディクトゥス14世の教書によって「いと敬虔なる王」という称号を授けられるほど聖職者寄りの統治を行ないました。また、バロック建築を奨励してマフラ国立宮殿を建造、1731年からリスボンにローマ式水道の建設を開始(完成は1799年)、コインブラ大学の図書館も建てています。最晩年の1750年にスペインとマドリード条約を締結、サクラメント返還の代わりにブラジルをほぼ現在の領域に拡大して繁栄を迎えました。寛大王(o Magnânimo)、太陽王(o Rei-Sol)と別号で呼ばれるも、晩年、1742年にジョアン5世を襲った発作は麻痺を残し、公務に支障を来たすようになりました。1750年、60歳でリスボンで崩御し、王位は息子のジョゼ1世がつぎました。
この金貨はコロンブスが発見した西インド諸島の植民地内に流通させる為に製造されたもので西インド諸島は砂糖産出地として有名でしたので交易の為にポルトガルはブラジルで金貨を製造したと考えられています。造幣局ができる以前は、ブラジルで金貨を製造しておらず、ポルトガルの貨幣に刻印(カウンターマーク)を追加したものが、主に流通していました。発行枚数は不明ですが、リオデジャネイロでの4000レイス金貨の発行は1707年~1727年まで行われています。ブラジルの繁栄最盛期でもあり、コインの作りも非常に美しいものとなっており、大変人気の金貨です。