フランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリアの皇帝でハンガリー国王も兼ねており、18歳で即位して86歳になるまでオーストリアの象徴として生き続けました。
後継者となったカール1世は、統治期間が非常に短いことから、オーストリア帝国の実質的な最後の皇帝と呼ばれることも多いです。
アンティークコインにおいても有名な人物であり、希少性の高いコインが現在もオークションやコインショップで取引されています。
この記事では、フランツ・ヨーゼフ1世の歴史について解説し、肖像が描かれた希少性の高いアンティークコインも紹介します。
この記事のポイント
・フランツ・ヨーゼフ1世の希少な金貨のアンティークコインを紹介
フランツ・ヨーゼフ1世とは?
画像引用:https://www.theneweuropean.co.uk/franz-joseph-i-great-european-lives/
父親 | フランツ・カール・フォン・エスターライヒ |
母親 | ゾフィー・フォン・バイエルン |
家名 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 |
配偶者 | エリーザベト・フォン・ヴィッテルスバッハ |
子息 | ゾフィー |
ギーゼラ | |
ルドルフ | |
マリー・ヴァレリー |
フランツ・ヨーゼフ1世は、1848年~1916年に渡ってオーストリア皇帝・ハンガリー国王に在位した君主です。
フランツ・カール大公とゾフィー大公妃の長男として生まれ、母が懐妊しないことを理由に塩泉の治療を試みた結果、フランツ・ヨーゼフ1世が生まれたことから塩の王子と呼ばれました。
当時の状況からフランツ・ヨーゼフ1世が将来的に国王になる可能性が高かったことから、皇帝になることを前提とした教育を受けます。
実はあのナポレオンの息子であるナポレオン2世とは従兄弟の関係です。
3月革命によって叔父のフェルディナント1世が退位したことで、18歳という若さで即位します。
彼の人物像は温厚で優しい性格である一方で、王権神授説を信じて新しい価値観を認めない自他ともに認める古いタイプの君主であり、この時代に発展した機械に関しても受け入れようとはしませんでした。
68年に渡る長い在位期間ではありましたが、治世に関してはけっして順風満帆ではなく、多くの悲劇に見舞われた皇帝でもあります。
オーストリアのアンティークコインの歴史と価値についてはこちらの記事で紹介しています。
オーストリア アンティークコインの歴史と価値【金貨・銀貨・記念コイン7選】
18歳という若さで皇帝に即位
フランツ・ヨーゼフ1世は、1848年にオルミュッツの大司教館でフェルディナント1世から18歳の若さで譲位されました。
オーストリア大公は20歳以上が成年と規定されましたが、フランツ・ヨーゼフ1世は特例で18歳から成年と認められました。
フランツ・ヨーゼフ1世は珍しい複合名の皇帝ですが、フランツ2世として即位しなかった理由は当時の革命の情勢が危機的な状態にあったからです。
革命派から愛される神聖ローマ皇帝のヨーゼフ2世を彷彿とされる名前を名乗ることで、革命派の支持を得る目的がありました。
実際にフランツ・ヨーゼフ1世が即位してから革命派から皇帝派に変わった市民も多くいたようです。
その後は、独立運動を抑圧、革命を鎮圧して、新絶対主義を掲げ、帝国の絶対主義的統治の維持を計りました。
世界一の美女といわれたエリーザベトとの結婚
エリーザベト皇后
新絶対主義を掲げたフランツ・ヨーゼフ1世ですが、母のゾフィー大公妃には逆らえず、政治への介入を許していました。
フランツ・ヨーゼフ1世の掲げる絶対主義は、過去の絶対主義とは異なる近代的な新しい絶対主義を生み出すものであったため、賛同者も多くいました。
皇帝の権力が強い体制ですが、フランツ・ヨーゼフ1世自身は温厚で誠実な性格であり、生活は王族でありながら質素なものです。
母のゾフィー大公妃は政治以外でもフランツ・ヨーゼフ1世の結婚相手についても口を出しており、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪であるマリア・アンナ王女を選定しています。
1852年当時、フランスはナポレオン3世が台頭しており、プロイセンとオーストリアの関係を修復する政略的な意図がありました。
すでにマリア・アンナ王女はフリードリヒ・ヴィルヘルム公子と婚約しており、ゾフィー大公妃はこの婚約を取り消させようとしますが失敗します。
次にバイエルン王家のヘレーネ・イン・バイエルンを候補に挙げて、ゾフィー大公妃はフランツ・ヨーゼフ1世と引き合わせます。
しかし、フランツ・ヨーゼフ1世はヘレーネの妹である美しい容姿のエリーザベトに一目惚れしました。
母はヘレーネと結婚するように指示しますが、フランツ・ヨーゼフ1世は自分の意思を曲げずにエリーザベトと結婚すると聞かず、初めて母親の意思に逆らいました。
ゾフィー大公妃は結婚を渋々了承したものの、エリーザベトをよく思っていなかったことから、フランツ・ヨーゼフ1世は結婚生活において板挟みになることも多かったようです。
度重なる戦争の敗北と悲劇に見舞われた治世
フランツ・ヨーゼフ1世の治世の歴史は、戦争における敗北と悲劇に見舞われたものとなっています。
イタリアのソルフェリーノの戦い、普墺戦争において敗戦しており、オーストリアの威信と権力は喪失していきます。
新絶対主義の時代も終焉を迎え、立憲主義による政治がスタンダードとなっていく中で、オーストリア帝政の長きに渡った歴史も終わりに向かっていくことが感じられるようになりました。
フランツ・ヨーゼフ1世は徐々に苦しい立場に追いやられていきますが、彼を追いつめたのは重なった悲劇でした。
息子のルドルフ皇太子は、フランツ・ヨーゼフ1世とは異なる革新的な思想を持ち、将来を期待されていましたが、国王との対立が絶えませんでした。
マイヤーリンク事件と呼ばれる、1889年にマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢と謎の心中を遂げており、フランツ・ヨーゼフ1世は息子を亡くしました。
皇太子を失ったことから王室にも影響を及ぼす事件であり、しばらくの間、跡継ぎが決まっていない状態が続きました。
息子を失ったショックの中でフランツ・ヨーゼフ1世が最も頼りにしたのは、妻のエリーザベトの存在でした。
しかし、1898年、エリーザベトはジュネーヴでイタリア人無政府主義者ルイジ・ルキーニに暗殺されます。
フランツ・ヨーゼフ1世が不幸な皇帝と後世において評価される理由は戦争の敗北と家族の悲劇にあります。
ただし、フランツ・ヨーゼフ1世の治世は不幸の後も続いていきます。
サラエボ事件と第一次世界大戦の開戦
サラエボ事件
この時代にオーストリアは、世界を巻き込んだ闘争の中心となる事件に見舞われています。
サラエボ事件は、サラエボに訪問中のフランツ・フェルディナント大公とゾフィー・ホテク伯爵令嬢が暗殺された事件です。
フランツ・フェルディナント大公は、フランツ・ヨーゼフ1世の甥にあたる人物であり、オーストリアの帝位継承者でもありました。
しかし、フランツ・ヨーゼフ1世との関係は悪く、政治的な考え方の違いや、ゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚をフランツ・ヨーゼフ1世は認めず、いくつかの条件を出して結婚を了承したものの出席しなかったほどといわれています。
サラエボ事件で二人が悲劇に見舞われたときは悲しむ様子は見せず、王権神授説を信じていたことから天罰が下ったと語っています。
帝位継承者が殺された状態で黙っているわけにはいかない面子の問題と、ルドルフ皇太子もセルビアの者から暗殺された可能性があるという説が出始めたことから、フランツ・ヨーゼフ1世はセルビアとの戦争に積極的でした。
1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が開戦します。
開戦した結果、フランツ・ヨーゼフ1世は権力を手放すことになり、陸軍総司令に権力が集中します。
作戦の情報を聞くことしかできなくなったフランツ・ヨーゼフ1世は、第一次世界大戦中に衰弱し、肺炎で崩御しました。
死後にオーストリアの皇帝として永遠に語り継がれる
戦争当時は国民の生活も困窮していたことから、皇帝の死に対して大きな混乱は生まれませんでした。
ハプスブルク帝国は地図上から姿を消し、第二次世界大戦後に永世中立国化して現在のオーストリアとなりました。
オーストリア国民が再び誇りを取り戻すためには、古き良き帝政の時代を想起することであると考えた人達から、フランツ・ヨーゼフ1世を象徴にするために肖像画が各地に張られていくことになります。
オーストリア各地で土産物などの商品を含めてフランツ・ヨーゼフ1世が描かれたものが販売されるようになり、死後もなお絶大な人気を誇りました。
オーストリアでは新たに皇帝が生まれることはありませんが、フランツ・ヨーゼフ1世は死後もなおオーストリアを象徴する皇帝として人々に勇気を与えました。
現在でも首都のウィーンでは、フランツ・ヨーゼフ1世の肖像を銅像やポスターなどを観察すると様々な場所で見ることができます。
特に戦争では良い成果を上げることはできず、家族が悲劇に見舞われたことから、不幸な工程であったと評されることもあります。
しかし、治世下における文化・経済の発展は目を見張るものがあり、幅広い芸術文化を庇護したことが、ウィーンが芸術の都と呼ばれることにつながっています。
なにより、死後も皇帝として象徴となっていることから、永遠の皇帝としてオーストリアを代表する君主であったといえるでしょう。
フランツ・ヨーゼフ1世のおすすめアンティークコイン
フランツ・ヨーゼフ1世のおすすめアンティークコインを紹介していきます。
- フランツ・ヨーゼフ1世 4ダカット金貨 1915年
- フランツ・ヨーゼフ1世 100コロナ金貨 1915年
フランツ・ヨーゼフ1世 4ダカット金貨 1915年
発行国 | オーストリア |
発行年 | 1915年(20世紀にリストライク) |
額面 | 4ダカット |
グレード | MS65 |
直径 | 39mm |
品位 | 986/1000金 |
発行枚数 | 496,501枚 |
状態 | UNC |
フランツ・ヨーゼフ1世の4ダカット金貨であり、20世紀にリストライクされたものとなっています。
軍服姿の若き日のフランツ・ヨーゼフ1世の肖像が描かれており、頭には月桂冠を被っていることがわかります。
フランツ・ヨーゼフ1世は幼少の頃は軍隊に強い憧れを持ち、クリスマスに軍隊に関連するプレゼントをねだるほどであり、生涯において軍服を好んで着用したそうです。
986ゴールド(純度98.6%)で製造されていることから、金としての価値も高く、金投資用のコインとしても優秀です。
歴史的な価値のあるアンティークコインであるため、長期的に保有することで金の価値以上のプレミアがつくことが期待されます。
フランツ・ヨーゼフ1世 100コロナ金貨 1915年
発行国 | オーストリア |
発行年 | 1915年(20世紀にリストライク) |
額面 | 100コロナ |
グレード | UNC |
直径 | 37mm |
重量 | 33.8g |
状態 | 未使用 |
こちらの金貨は老年の時代のフランツ・ヨーゼフ1世を描いた100コロナ金貨です。
発行年は1915年となっていますが、実際には1960年~1970年に発行された金貨であると考えられています。
アメリカでは当時、金・地金を保有することが禁止されるようになりましたが、アンティークコインなどのコレクション用のコインは保有することが認められていました。
そのため、オーストリア政府は発行年を1915年とすることで収集用金貨としてアメリカに輸出して、実質的な地金型金貨として流通させることに成功させたのです。
現在ではアンティークコインとして人気を集めており、希少性の高い金貨となっています。
まとめ
フランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリアを象徴する永遠の皇帝です。
リストライクを含めてアンティークコインが存在することからアンティークコイン市場においても根強く取引されています。
アンティークコインの購入方法についてはこちらの記事で紹介しています。