ウィリアム4世は、ハノーヴァー朝第5代のイギリス国王であり、先王のジョージ4世とは兄弟の関係にあります。
ジョージ3世の三男であったことから、継承順位が低く、誕生時には国王になるとは考えにくい人物でした。
王族として国王になるための教育を受けてこなかったことから、海軍士官となり後に船乗り王と呼ばれ、イギリス王室史上でも庶民派の国王として知られています。
この記事では、ウィリアム4世の歴史について解説し、おすすめのアンティークコインを紹介していきます。
この記事のポイント
・ウィリアム4世の希少な金貨のアンティークコインを紹介
ウィリアム4世とは?
画像引用:イギリス王室 公式サイト
父親 | ジョージ3世 |
母親 | アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン |
王弟 | ジョージ4世 |
王朝 | ハノーヴァー朝 |
家名 | ハノーヴァー家 |
配偶者 | キャロライン・オブ・ブランズウィック |
子息 | シャーロット(夭折) |
エリザベス(夭折) | |
愛妾の間に10人の庶子あり |
ウィリアム4世は、ハノーヴァー朝第5代のイギリス国王であり、王弟であるジョージ4世の死後に1830年~1837年の7年間において治世した人物です。
ジョージ3世の三男であり、19世紀は王族であっても若くして命を落とすことは珍しくありませんでしたが、継承順位の低さから王族としての教育を受けてきたわけではありません。
海軍士官となり、軍艦「ペガサス」の館長にも就任し、航海の先でカナダの土を踏んだこともあるため、船乗り王と呼ばれています。
ウィリアム4世には、王位継承前に船に関して海軍本部と対立するエピソードもあったため、兄のジョージ4世とは異なる破天荒さで知られています。
一方で兄とは異なり、女性関係は派手なものではなく、愛妾のドロシー・ジョーダンと20年余り夫婦のように暮らし、10人以上の庶子を設けており、子どもにはそれぞれ自分の公位であるフィッツクラレンスの姓を与えました。
国王になった後も自分のスタンスを曲げることはせず、侍従も連れずに街を歩き回り、ロンドン市民からは大変人気の高い国王となりました。
王族であることを隠して士官候補生として海軍に入隊
幼少期のウィリアム4世
1765年、ジョージ3世と王妃シャーロットの間に三男として生まれ、5歳のときにはシッスル勲章を授与されています。
1779年、13歳で士官候補生として海軍に入隊しますが、この時、王族であるという素性を隠して入隊したといわれています。
そのため、王族という理由で特別扱いされることなく、他の士官候補生と同等の訓練を受けました。
厳しい訓練が課される中で、ウィリアム4世は泣き言をいわず、弱みを見せることは全くなかったようです。
サン・ビセンテ岬の月光の海戦に参加、アメリカ独立戦争の際にはニューヨークに勤務しており、王族とは程遠い海軍として人生を生きています。
1785年にイギリスに帰国して士官となり、カナダやインド諸島にも赴き、1790年には海軍少将に昇格しました。
しかし、この昇格は実質的な後方勤務への左遷であり、王子であるウィリアム4世が軍の前線において力を持つことが不都合と判断されたからでした。
愛人である女優ドロシー・ジョーダンとの生活
ドロシー・ジョーダンは、ウォーターフォード近郊で生まれたアイルランド人であり、舞台女優でした。
ウィリアム4世は彼女を愛妾にして、20年以上に渡る同棲生活の中で10人の庶子を設けました。
ウィリアム4世の子どもは、継承順位のある子どもはすべて夭折していますが、継承順位のない子どもが多くいます。
生活が破綻してしまった原因は、兄に跡継ぎが恵まれなかったことであり、ウィリアム4世は早急に然るべき相手と婚姻を結び、跡継ぎを遺すように迫られます。
これをきっかけにウィリアム4世は断腸の思いでドロシーとの関係を解消することになりました。
子どもたちの親権と養育費の支給を条件にドロシーと別れ、ドロシーは女優業を引退して子育てに専念することを約束しました。
ドロシーは生涯独身でしたが、ウィリアム4世以外の子どもを設けており、その子どもの借金を肩代わりすることを理由に女優業に復帰することを決意しました。
約束が破られたことを理由にウィリアム4世は、養育費の支給を停止し、子どもを全員引き取ります。
結果的にドロシーは借金返済ができなくなったことを理由にフランスに逃亡し、貧困の中で一人この世を去りました。
1818年、ウィリアム4世は彼女の不幸を知るとザクセン=マイニンゲン公国のアデレード公女と結婚。
アデレード公女は流産・死産を繰り返し、跡継ぎに恵まれることはなく、ウィリアム4世はドロシーとの子どもを可愛がりました。
ウィリアム4世は即位するとドロシーの大理石彫刻を制作していることから、別れや裏切りがあったとしても彼女への強い思いがあったことが推測できます。
この大理石彫刻は、現在もバッキンガム宮殿に飾られています。
海軍本部のトップ「ロード・ハイ・アドミラル」に任命される
ウィリアム4世のロード・ハイ・アドミラルを巡る風刺画
1827年、次男のフレデリックが死去すると、ウィリアム4世が王位継承者となります。
これを機会に、海軍本部のトップ「ロード・ハイ・アドミラル」に任命されました。
しかし、王族が軍のトップの役職に任命される意味を考えるなら名目上の名誉職であり、形式的なものに過ぎません。
ウィリアム4世はこのような状況に置かれながら、役職としての職権を行使したことから、軍から迷惑な存在として認知されていくことになります。
職を理由に、海軍本部の承認を得ず、政府の方針にも沿わない勝手な行動を繰り返しました。
海軍砲兵委員会に提出した勤務指令書を巡って海軍本部と対立し、艦隊を率いてプリマスを出港し、行き先を告げずに10日間も海上に留まりました。
政府はウィリアム4世の行動を看過できずに、ロード・ハイ・アドミラルから解任しました。
兄王のジョージ4世とは異なる破天荒なエピソードとなっています。
「戴冠式などどうでもいい」庶民派国王のウィリアム4世の誕生
1830年にジョージ4世が崩御すると、65歳という高齢でウィリアム4世が王位につきます。
ウィリアム4世は即位に対して「戴冠式などどうでもいい」といった発言をして、側近の貴族たちは焦ります。
その後、小規模であっても良いので開催して欲しいと説得されて、渋々戴冠式の開催を了承したそうです。
しかし、一部の貴族達は戴冠式が地味で面白くないといい始め、これに対してウィリアム4世は「ウェストミンスター寺院が広々として良いではないか」とユーモアをまじえて返しています。
前王のジョージ4世は贅沢王・借金王の名のもとに借金を作っていた反動もあり、国民にとって庶民派国王のウィリアム4世は好意的に見られました。
海軍時代と同様に侍従も連れずにロンドンの街を歩き回り、ウィリアム4世を見つけたロンドン市民は歓喜とともに駆け寄り、握手や会話にも応じて人気を集めました。
ヴィクトリア女王の王位継承に影響を及ぼした
ヴィクトリア女王
ウィリアム4世の治世はわずか7年であったため、労働の問題に取り組み、解決策を提示したものの、目立った功績はありません。
一方で、イギリスを大きく発展させたヴィクトリア女王の王位継承に影響を及ぼしたことが功績と評価することが多いです。
ヴィクトリア女王の母であるケント公妃はドイツの出自であり、将来的にドイツ寄りの思想を持つ人物が摂政となり、ヴィクトリア女王に干渉しようとすることは明らかでした。
ケント公妃に対して個人的に不信感を抱いていたウィリアム4世は、ヴィクトリア女王が摂政を必要としない18歳になるまで生き続けることを決意します。
ヴィクトリア女王とウィリアム4世の関係は非常に良好であり、次第に彼女を家族のように接するようになり、ヴィクトリア女王に対して2つのことを行っています。
1つめは、18歳になったヴィクトリア女王に母親に干渉されないお金であることを条件に10,000ポンドの年金を贈っています。
2つめは、ウィリアム4世は宣言通りヴィクトリア女王が18歳になるまで生き続けたことであり、実際に亡くなったのはその1ヵ月後のことでした。
これにより、ケント公妃はヴィクトリア女王の摂政として王室において力を持つことはできなくなりました。
仮にヴィクトリア女王に摂政がつき、ケント公妃が力を持ったのであればイギリスの歴史は変わっていたかもしれません。
ケント公妃を摂政にすることなく、ヴィクトリア女王にそのまま王位を継承できる状況を作ったことは歴史の転換点であった可能性もあります。
ウィリアム4世は臨終間近に、今日がワーテルローの戦いの戦勝記念日であることを思い出し、今日が過ぎるまで行きたいと語りました。
その言葉通り、ウィリアム4世は次の日まで生きて日没を拝んでから崩御しました。
ヴィクトリア女王もウィリアム4世に対して個人的にいつも自分に親切にしてくれたと語っています。
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ウィリアム4世のおすすめアンティークコイン
ウィリアム4世のおすすめアンティークコインを紹介していきます。
- ウィリアム4世 戴冠記念金製メダル 1831年
- ウィリアム4世 2ポンド金貨 1831年
ウィリアム4世 戴冠記念金製メダル 1831年
発行国 | イギリス |
発行年 | 1831年 |
タイプ | Gold Medal |
グレード | PF62CAM |
直径 | 33mm |
状態 | PF UNC |
エピソードで語った通り、あの伝説的な戴冠式を記念して発行されたのがこちらの金メダルです。
表面にはウィリアム4世の肖像、裏面にはアデレード王妃の肖像が描かれています。
記念メダルは通貨と比較して資産として価値が低いといわれることがありますが、こちらの戴冠式メダルは大きな価値を持っています。
直径33mmの大型で見栄えも良く、力強い彫刻技術によって表現された肖像は芸術性もあり、歴史的価値が非常に高い金メダルです。
正確な発行枚数は不明ですが、希少性も高く、将来的な値上がりも期待できる1枚となっています。
ウィリアム4世 2ポンド金貨 1831年
発行国 | イギリス |
発行年 | 1831年 |
額面 | 2ポンド |
直径 | 29mm |
発行枚数 | 225枚 |
状態 | Proof UNC |
ウィリアム4世は豪華絢爛を好まず質実剛健な王様であったことから、5ポンド金貨を造りませんでした。
そのため、2ポンド金貨が最高額面であり、発行枚数もわずか225枚と希少性が高いです。
ウィリアム・ワイオンが手掛けた肖像と紋章が魅力的な金貨となっています。
まとめ
ウィリアム4世は、わずか7年の治世ではありますが、ロード・ハイ・アドミラル時代から破天荒なエピソードが多く、ヴィクトリア女王の王位継承において後のイギリスに大きな影響を及ぼした人物です。
彼自身のエピソードとしては、愛人の女優ドロシー・ジョーダンとの恋は、同じく愛人を心から愛して王位を放棄した「王冠を賭けた恋」で知られるエドワード8世とは対称的ではあるものの人気があります。
イギリス王室が好きな人からは支持を受けることも多いウィリアム4世は、実はアンティークコインにおいても収集されることが多い人気の国王となっています。
また、現在の皇太子はウィリアム皇太子ですが、ウィリアム皇太子が即位するとウィリアム5世となり、約200年ぶりにウィリアムの名を持つ国王が誕生します。
イギリス王室の歴史とアンティークコインについてはこちらの記事で紹介しています。